2013年02月01日

横山光輝『三国志』のミス

先日、生徒に漢文を教えていて、ふと歴史漫画の内容に、小さな誤りを見つけてしまいました。

漢文というと、中学校の教科書に必ず掲載されているのが「春暁」です。のどかな春の日の様子を描いた、単純ながら佳作で、起句「春眠暁を覚えず」は、誰もが読んだ記憶があるのではないかと思います。

さて。中国史漫画と言えば横山光輝先生が、それなりに原作に忠実な内容で、大変な分量の作品群を描いておいでです。中でも『史記』は中高生必読。あれを読めば、漢文の世界がかなり分かるはずです。小学生諸君には『三国志』を推したい。

さて、問題はその横山光輝『三国志』の「三顧の礼」のシーンです。主人公・劉備が天才軍師・諸葛亮の在宅をようやく捕まえた時、諸葛亮は昼寝の真っ最中だったわけですが、ようやく起きてポツリと「春眠暁を覚えず…か」とインテリめいたセリフをはきます。で、この「春眠暁を覚えず」つまり「春暁」は、盛唐の詩人、孟浩然の作品です。同じ頃の日本は奈良時代。そして諸葛亮は唐より前の後漢末〜三国時代の人。日本は邪馬台国の卑弥呼の時代です。諸葛亮が孟浩然の詩を読めるはずがないんです。

好きなんですけどね。この「春眠暁を覚えず…か」っていうセリフ。今年の受験が終わってゆっくり眠れる休日が訪れたら、朝寝坊の寝起きに呟いてみようと思います(笑)
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2011年03月07日

法の声、声の法

FORWARD塾長、松尾直樹です。
先日、生徒と一緒に読んだ文が面白かったので、今日はその文のまとめを書かせていただきます。勝手にレビューします(笑)今回はまとめるのに苦労しました。全体に、かなり無理やりまとめました。元の文に対して充分忠実とは言えないので、あしからず……

著者は鷲田清一。タイトルは「法の声、声の法」です。
『法と情動法社会学 第60号(日本法社会学会/編 有斐閣/出版)』に収録されている論文のようです。

筆者はまず、近代には「感情」は「知性」と対立するものと考えられた、というところから語り始めます。現代に生きる私たちも、普通はこの対立構図を前提に物事を考えているのではないでしょうか。感情的になると、冷静な判断、知的な判断が狂ってしまう。感情は知性を鈍らせる。逆に、冷静になって知性が働き出すと、感情は落ち着く……といったように。しかし、そのような対立構図で考えると、問題があると筆者は考えるようです。

近代のありがちなものの考え方では、「知性/感情」の対立には、他の対立が関連づけられた。たとえば「客観/主観」「普遍/特殊」「理論/実践」といった対立の構図が用意され、「知性・客観・普遍・理論」グループと「感情・主観・特殊・実践」グループが仲良しグループで、おおよそ「知性・客観・普遍・理論」グループの方が良い。少なくとも科学や知的営みに役立つ、と考えたようです。(筆者はそこまではっきり書いていないけれど、まぁ、大雑把に言えば、そんな感じです)実際、素朴に考えてみれば、怒ったり泣いたりしていても知は発展しないような気がします。「知性」は物事を「客観」的に観察し、そこから「普遍」的に当てはまる「理論」を見つける事で発達する。たとえば病気を恐い恐いと言っていないで、冷静な実験観察を行い、どんな時にも当てはまる法則を見つけて、そうやって病気の原因や治療法を発見して行きます。それに成功すれば、個々に病状が違ったりする「特殊」な例である患者達に、治療を「実践」することができます。「知性・客観・普遍・理論」がまずあって、「特殊・実践」は後です。でも、このグループ分けは正しいのだろうか。たとえば「知性」グループに属する「普遍」と、「感情」グループに属する「実践」とは、結びつかないのだろうか。筆者は「実践的に普遍的なものはその固有の場所を奪われ、主観的ー相対的な事柄へと転落させられてしまう」と述べます。つまり、「実践&普遍」は、実は存在するんだけど、冷や飯を食わされている、と言いたそうですね。

残念ながら「実践的に普遍的なもの」とは何をさすのか、何がどう「実践的」だというのか、また「普遍的」だというのか、それがこの文からではよく分かりませんでした。ですが、とにかく「知性」グループと「感情」グループという分け方は怪しい、と。

それを崩すために、筆者は「言葉」という道具を持ち出します。「言葉」は普通、「知性」グループと関係していると考えられます。たとえば勉強に使うどんな教科書も参考書も、びっしりと文字で表現された言葉が並んでいます。でも、筆者はその「言葉」を敢えて感情と結びつけます。「ガブリエル・マルセル」という人の書いた事を参照して、筆者は赤ん坊が感情を学習する時の様子を持ち出してみせます。赤ん坊が泣いたり笑ったりするたびに、母親はそれを「泣いた」「笑った」と判断し、一緒に(それも大げさに)泣いてみせたり、笑ってみせたりする。こうしたやり取りを通じて、赤ん坊は母親が(言葉を使って)行っている感情の分類を学習する。自分の今の気分と、さっきの気分は、同じ「楽しい」なのだ、というように。(だって、ママがさっきと同じ顔しているもの!)つまり、感情は言葉と関連し、同じ言葉を喋る多くの人と共有されている。感情は、特殊じゃなくて、普遍なんじゃないか。そういう事もあるんじゃないか。

さて、法律というものがある。どちらかと言えば知的なもので、たとえば殺人事件があって犯人が逮捕されたら、「憎らしいから死刑」じゃなくて、よく状況を確認し、法に基づいて裁かなければならない。法は「知的・客観・普遍」グループに属します。ただ、筆者ははっきり書いていないけれど、法はそもそも社会の中における「実践」なのではないでしょうか。そして、これは筆者がはっきり書いているけれど、法は知性とばかり結びつけるのではなく、感情とも関係がある。法によって殺人犯が裁かれるのは、ひとつには被害者や遺族のための「報復」という面がある。感情と法は深い関係を持っており、被害者遺族が心情的にも納得できる事を、法は含まねばならない。そのために第三者である裁判所なんかが判決を下して「報復」するだけじゃなく、当事者間で対話し、それによって何かが「修復」されるのが望ましい。感情にまで耳を傾けて初めて、本当に「理性的」だと言える。

そんなわけで、よく相手の気持ちに耳を傾けるのが大事なんだけど、これがまた大変な作業だ。犯罪に巻き込まれた人は、そのことを思い出したくない。だから、語るのも苦しいし、誰も答えられないような疑問ばかりが次々と湧いてくる。語ることは、自分の苦しい経験を思い出し、解釈し直し、整理して、最終的にはその経験から距離をとって、少しは落ち着いて眺められるようになる過程なんだけれど、それが話す方もなかなか上手くいかないし、聞く方も聞くのが辛かったりする。

筆者はここで、どうも2つほど、問題を提起しているように見えます。ひとつは「聞く側が相手の言葉を待ちきれずに、『つまりこういう事だろ』と言ってしまうこと」話し手がゆっくり自分の経験を言葉に置き換えて語っていく、そして自分の経験との距離を確保していくのが「聞く」ことなのに、聞き手が結論を先取りしちゃったら、話し手は自分の経験を言葉に置き換えるチャンスを奪われる。こういうことをされると、話し手は「話さなければ良かった……」と思ってしまう。
もうひとつは、「聞く側が話し手の話を理解できない」これは下手に理解しようとする必要はないと筆者は考えているようです。話し手もやり場に苦しむような思いを、そう簡単に受け止められるはずもない。むしろ大切なのは、考えや思いを訴えあい、聴きあうこと、そのものだと言います。(だって、訴えあい、聴きあう中で、自分の経験を少しでも落ち着いて眺められる距離が確保されるのですから!)

聞く側は、単にハイハイと聞くのではなく、訴える声が耳に届いて「む?」と思った時点で、そういう相手と相互にやり取りをする関係に入っている。(サクッと無視した場合も、お互いに「無視しちゃった……」「無視されたよ……」という気持ちが残るから、既に何かしらをやり取りしています)そういう、お互いにやり取りして、自分もいろいろ受け取って、当然そうすると心が揺れて……そういうやり取りする存在として、自分を考える、自分の振舞いを考える、そういうことが大事なんじゃぁなぁい?

……と、そんなところでしょうか。最初に用意された「知性/感情」「客観/主観」「普遍/特殊」「理論/実践」といった対立構図が、どう崩れ、どう組み直されたのか、私にはちょっと分かりにくかったですし、話題の転換が何度かありましたが、その話題がどのように関連しているのかも、ちょっと掴みかねるところがありました。しかし、「知性/感情」というありがちな構図を「赤ん坊の養育」や「法」といった事例を挙げつつ崩していくのは面白かったですし、終盤の「聞く」ことについての論は心に迫るものでした。「自分の気持ちを言葉にすると冷静になれる」とはよく言いますし、「人の相談にのるときは、まず聴く事が大切、安易に分かったような顔をするのは禁物」とはよく言いますが、「聴かずに安易に共感面をすると、自分の気持ちを言葉にするチャンスを奪ってしまう。気持ちを言葉にするのは、自分でやらなきゃ意味がないんだ」とつなげて論じてあるのは、私には新鮮でした。なるほど、そういうわけか、と。

ちょっと読みづらくも感じましたが、世の苦しみをどう救いとっていくかという、重い課題を突きつける、熱い論文でありました。
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2010年12月04日

『生命知としての場の理論』つまみ食い

FORWARD塾長、松尾直樹です。
季節柄、各大学の過去問に目を通しますが、現代文はやはり面白いですね。各大学、それなりに面白い文章を持ってきます。これだけの短さで内容が完結して、問題もついていて……この作問という仕事も、大変な労力です。

先日、生徒と一緒にみた問題は、清水博氏の『生命知としての場の理論』という本からの引用でした。



引用部分の趣旨は、大まかにいえば「こういう場合はこうしなさい、とマニュアル化できる知識は、想定外のことが起きると対応できない。でも世の中のほとんどの状況では、何が起きるか事前に想定することはできない。そんな想定外だらけの世の中でも、生き物はちゃんとやっていく。マニュアル化できる知識は『機械的知』と呼ぼう。想定外にも対応できる知は『生物的知』と呼びましょう。やっぱり生物的知の方が大事だよね。で、生物的知には更に2種類があって……云々」といったところでしょうか。
似たような議論を他に読んだ事があるので、各別新しいわけでもないですが、昔こんな話を見聞きした時とは、私の方に変化があったので、ちょっと考えさせられました。「こういう問題が出たら、答えはこれだよ」と教えるのは、正に機械的な知で、そういうものを大量に暗記させればテストの点は良くなるでしょうけれど、想定外の出来事が次々と襲いかかる人生を生きていく上では、あまり役に立ちそうにない。私が塾の生徒に、そういう知識ばかりを教え込んだら、それこそ詰め込み教育・受験産業との誹りを免れないでしょうし、そんな詰め込みでは、主体性の無い生徒は唯々諾々と従って成績を伸ばすかも知れないけれど、元気のいい生徒は却って勉強を退屈に感じ、ビシバシ暗記させようとすればするほど、ついて行けないと感じてしまうことでしょう。生徒に人生を切り拓く役に立つような知的トレーニングを与えようと思うなら、生物的知の方を伸ばしてやるべきでしょう。知というのは本来、そういうもの。生物にとって、生存可能性を高め、肉体的な喜びにつながるもので有り得るはずだと思うのです。

これは凄い、とドキドキするような知を見せたいですね。
posted by FORWARD-ac at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評・文芸批評

2010年11月20日

いきものがかり「花は桜 君は美し」

そんなわけで、「いきものがかり」の楽曲「花は桜 君は美し」に、発表から二年経った今さら出会い、ハマってしまったワタクシです。この曲、メロディーや歌詞は分かりやすいので今さら私がとやかく言うこともないのですが(力強い歌声を一部だけかすれさせるなど、歌の上手さ、歌詞とメロディーと歌唱との優れた照応には注目していただきたい!)学習塾の塾長ということで、ちょっとインテリぶって分析的に読み解いてみようかと思います。

「花は桜 君は美し」は三部構成になっており、歌詞内容は一度別れた恋人たちの物語らしく思われます。一番で相手から電話がかかってきて、相手の気持ちに思いを馳せる。二番は町を見ながら自分の気持ちを述べる。三番は一転して、「春もまたもう一度 この花を咲かせたいのでしょうか?」と、「春」を主語にして語り、恋人たちが仲を回復させたらしい展開で終わります。
季節である「春」を主語にするのが面白いですね。「春」は何かをしたいと思ったりはしないでしょうが、それを敢えて「花を咲かせたい」と思う主体として設定しています。意表を突いて印象深い表現だし、まるで季節全体、世界全体が二人の背中を押しているかのような印象を生み、希望のある暖かい世界観を形作っています。また歌詞の主語が「相手」「自分」「春」と移っていくわけですが、相手と自分という相対する主語の後に、両者を包む「春」を持ってくることで、互いに意識しながら距離をつめられない二人の状況が一気に打開される流れを自然に演出しています。相手がテーゼで、自分がアンチテーゼで、春がアウフヘーベンで、止揚して、という展開です。さらに、冒頭では「君の心に春が舞い込む」終わりでは「僕の心に春が舞い込む」と自他を配置し、美しい対照をなし、まるで春の便りが相手から自分に届いたかのような印象を作り上げています。

全編を春のイメージでまとめ上げているのも、曲のイメージをまとまりよく美しく整えています。自身を表現する「春を待つ蕾のように迷っています」「春を抱く霞のように揺らいでいます」という明喩は秀逸ですね。そこに雨のイメージを重ねていますが、雨のイメージは曲の進行と共に薄れ、それがグラデーションを形作っています。初めはグレーだった色調が薄れると共に、次第に隠されていた桜色が顕れてくるイメージです。(プロモーションビデオが、正にそんな作りになっていますが)冒頭で涙と結びついていた「強い雨」が、最後には「僕を待つ君の傘が あの駅に開いています」という表現で、むしろ二人の仲の回復を演出する小道具に変化するのも見事です。意味を180度ねじる詩のアクロバットです。
また、「君の傘が」と「開いています」の間に、他の言葉が挟まって少し空いているために、「開いてい」るのが「傘」であるという文脈が曖昧になり、「開いてい」るのは桜の花、あるいは「春を待つ蕾のように迷ってい」た「僕の心」なのではないかというイメージも膨らみます。

細かな語尾にも見るべきものがあります。「花は桜 君は美し」というフレーズからして、古語風の語尾を採用して清少納言の「枕草子」を意識させ面白いですが、さらに詩全体に「です・ます」調や「でしょうか」という疑問表現を盛り込んで、語りかけるような心に染み込む詩表現を生み出しています。

こうした繊細な詩の作りが、ドラムやエレキギターを多用するサウンドと好対照を成して奥行きを生み出し、ヴォーカルの力強い歌唱によって聞き手の心にドスンと響きます。

 花は桜 君は美し
 花は香り 君は麗し

思えばこの言葉自体が、あまりに直球。恋人関係でなくとも、こんな言葉を言えるほどに相手を評価できたら、幸福な経験であると言えますまいか。そもそも「美しい」この言葉自体が美しい言葉です。ゲーテの描いたファウスト博士も、「時よ止まれ、この瞬間は美しい」が最後の言葉、絶命の一句となっています。「美しい」という言葉には、少なくともゲーテにとっては、そこに命を賭けても良いような至上の価値がおかれていたのでしょう。ダンテの「神曲」もまた、ベアトリーチェと言う「美しい」女性に導かれる事で見神の域に達します。それを思い返すと、「花は桜 君は美し」という直球のフレーズには、見神の響きすら込められているように思われます。

いやー麗しい。
文学は良いですな。


2015/1/10 追記
最後のあたりは一人で感極まってしまった感じの文になっていてお恥ずかしいです。消してしまおうかと思いましたが、まぁ恥を受け止めるのも勉強のうちと思い直して、消す代わりに反省の弁を追記しました。
ただ、「美しい」という言葉自体が美しい、という指摘は当たり前のようですが、それでも含蓄があるように、今でも思います。問題は、その「美しい」をただ使うと陳腐きわまりない言葉になって、大上段の空振りになってしまう。そこを、この「花は桜、君は美し」は、古典の引用と文語的な表現で、高尚なムードを加える事でクリアしている。「見神の響き」があるかどうかはどもかく(苦笑)ポップソングの歌詞としては、技ありと言うべきではないかと思います。
また、ヴォーカルの力強さとのバランスもとれていると思います。いずれにせよ、佳作である、と思います。

ところで、清少納言の枕草子では、実は「花は桜」とは言っていません。「木の花は」の後は「濃きも薄きも紅梅」と続きます。清少納言は、良く言えば漢学を重んじる、悪く言えば中国かぶれの人なので、和風の桜ではなく中国でも珍重される梅や梨の花を称揚する。これは清少納言の個性・人物像と深く関わる部分なので、引用として成功しているのかどうかというと、ちょっと難しいところかなと思います。できればオリジナルの古典でも桜を称揚している文を引用すれば、引用元の世界観が、もっと引き立ったはずでは……とはいえポップミュージックとして成功するためには、超有名どころから引用しないと、聞き手の大多数に響かないし……このあたりは難しい駆け引きだと思います。
posted by FORWARD-ac at 14:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評・文芸批評