2012年10月05日

漱石は我々と同じ近代人??

練馬から教育で世界を変える!
石神井公園の個別指導塾FORWARD塾長、松尾直樹です。

先だって、記事の中に「夏目漱石は近代を代表する知性」などと書きましたが、実は私は漱石をそんなに読んでいません。新潮文庫で何冊か読みましたが…10冊はいっていなかった気がします。知人から「倫敦塔と虞美人草がいい」と聞かされたものの、近頃は読書自体を殆どしない体たらく…
※実はこの記事を書いたあと、青空文庫で『倫敦塔』は読みました! google画像検索で言及されている絵画作品も見比べながら読んだら、非常に面白かったです!!

さて、それはさておき、皆さんにとっては夏目漱石といえば、どの作品でしょうか。東大生的には、本郷キャンパスの真ん中にある心字池が通称「三四郎池」なので、三四郎が耳慣れた作品名でしょうが、私はそのキャンパスを去って久しいので…教育関係者としては、何といっても『こころ』ですね。

漱石の作品に『こころ』という長編があり、多くの高校が現代文の授業で扱うので、教育業界に身をおくと馴染みのタイトルになります。原文は非常に長いので、教科書はもちろん抄録ですが、それでも長く、そして、暗い。友人が自殺してしまったことを心に抱え続け、ついには自分も自殺しようとする人物の話ですから…その友人の自殺シーンの凄烈な筆致は、きっと多くの高校生にとって長い国語教育の中で、最も鮮明な記憶の一つとなるでしょう。

現代文が高校生たちに対峙する事を要求するテーマとは、このようなものです。自己と他者の内面の断裂、自己の振る舞いに対する罪障意識、死ぬまで誰にも明かせない内面、それを絶望の果ての告白という形で吐露するスタイル、語るより文字に残す方が真実を表現できるという真偽観念、そのすべての矛盾の解消を死という究極点に求める生死観…漱石自身は「明治の精神に殉死する」と書きましたが、こうして書き出してみると、これぞまさしく近代精神が(従って、我々が近代人だとすれば、我々もまた)向き合わざるを得なかった、漱石が『こころ』で、また太宰治が『人間失格』で表現し、芥川龍之介が自ら実践せざるを得なかった、時代精神の裏面なのだと思います。
共感するにせよ、反発するにせよ、まずは近代がそのような時代であったことを理解することが期待されているのでしょう。

もっとも、思うに我々は現代人なのであって、漱石の描いた人間像は古臭い、という面もあるのでしょう。現代的な感覚としては、自己の「内面」なるものは断片的な意識の流れにすぎず、自己の振る舞いに対する罪障意識も途切れ途切れに流れ去るものであり、それも人には言えないなどと思いつつチラホラ暴露してしまうもので、従って絶望の果てと言うほど煮詰まる事もなく、そんなものを語ろうが文字に残そうが真実を表現できた事にはならない、従って幸いというべきか、死で解決せねばならないほどの矛盾を時代精神の故に抱えるという事もないのでしょう。先日読んだ国語の課題文が、人間をパラノ型(パラノイア…偏執狂型:一つの事をとことん追求するタイプ)とスキゾ型(スキゾフレニア…分裂症型:その時の思いつきのままにフラフラしてまとまりの無いタイプ)に分けて論じていましたが、正に時代はパラノ型の近代精神からスキゾ型の現代意識に移行し、我々は国の発展とか社会善とかを忘れ、感覚的に楽しいことに現を抜かして、それで良いと思う時代に生きているように見えます。テレビにつられて話題が日々移り変わり、次いでもっと短いYouTubeの動画を好きな時に見るスタイルが広まり、感覚はどんどん時間を短いスパンに切り刻んで行く。

長い先の人生を考えて刻苦勉励を説くなどというスタイルが、完全に時代遅れになってしまう時代がいずれ来はしないかと、ちょっとヒヤヒヤします。
posted by FORWARD-ac at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | つぶやき
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