2012年04月24日

続・「勉強するという文化」とは?

教育で練馬から世界を変える!
練馬区は石神井の個別指導塾FORWARD塾長、松尾直樹です。

前回の記事で「勉強する文化」という表現について書きましたが、続けてもう少し、この「文化」という言葉の含みについて、私の考えを書いてみようと思います。

前回は日本の文化の一つ、箸を用いた食事を例にとって、勉強を文化と見做すとは、どういう事か、書きました。
さて、ところで箸を用いて食事をする事を、箸を用いていない人たちに強制することはできるでしょうか。出来ませんし、それは間違っています。世界には様々な食事の文化があり、それらの文化は箸を用いる文化と、優劣を論じることは出来ません。ですから、異なる文化を持つ人に、自分の文化を無理強いすることは出来ません。
同じように、私が「勉強は文化だ」と言った時、それは「誰にでも勉強を強要できるわけではない」という覚悟を伴っています。人によっては、例えばスポーツや芸術の鍛錬を重んじる人もいます。そうした様々な選択肢の中から、特に勉強を重んじる事を勧めたいのであれば、勧める側の正しい努力が必要になります。私は、私たち大人が何の努力もせずに、子供達が文化として、生活態度としての勉強を身につけてくれるとは、期待していません。「勉強した方がいいに決まっているのに、どうして勉強しないんだろう」ではなく、この文化を継承してくれるように、伝える側は工夫をしなければならないのです。

世の中には様々な文化があるため、自分の文化を相手に身につけさせることは、必ずしも当然のことではありません。これは、たとえ相手が自分を慕っている教え子であったり、あるいは自分の実の子供であってさえも、同様だと思います。箸のように、他の選択肢が乏しく、生活していれば身の回りに常に箸があるというほど日本の環境に定着した文化であれば、日本で共に生活していると、最低限のラインは自然と伝わるでしょう。しかし、例えば服飾文化は世代間で容易に食い違いが生じます。同じように、勉強に対する認識も、大人が期待する態度を子供が身につけると期待するのは、まったく甘い考えです。子供たちが、他の選択肢と比べても、自分はこの文化に愛着があり、やっぱり自分はこの道で生きていきたいと考えるように、勧めたい文化を魅力あるものとして提示する必要があります。あるいは、空気のように当たり前のものとして、好ましい生活の一部として提示せねばなりません。

このように、勉強を文化と見做すという事は、子供に勉強して当たり前だという姿勢で臨むことはできないと考え、必死に工夫しなければ子供に勉強させることはできないと覚悟を決める事なのです。「勉強するという文化を身につける」というのは、美しい理想であるのみならず、現実を受け入れての覚悟表明でもあるのです。

生徒がいない時、しばしば、自分は何のために勉強するのであり、そこにいかなる価値があるのかと考えます。そして、果たして自分のたたずまいは、また自分の周囲の場は、果たして子供たちを引き付ける魅力があるか、空気のようにさりげなく喜ばしいものかどうか、考えます。

……そんなコト考えるから、街中で滅多な事はできないんですね(苦笑)
教師という仕事はどこかで聖人君子たる事を求められてしまうところがあり、どうしても若干の背伸びをしないと務まりません。胃が痛くなるワケです(苦笑)
posted by FORWARD-ac at 14:44| Comment(0) | TrackBack(1) | 「学び」について
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生きるという文化
Excerpt: 人類の文化には人類共通の部分と地域集団に固有の部分とがあります。言語の構造と同様
Weblog: 哲学はなぜ間違うのか?
Tracked: 2012-04-26 21:05