FORWARD塾長、松尾直樹です。
余震がまだまだ続きますね…被災地域を中心に大きい余震が頻発し、現地の避難所にいたら辛いでしょう…原子力発電所の状況も、残念ながら当初言われていた通りの長期戦になりつつあるようです。
先日読んだ現代文の論説に、「道徳」の概念について書かれていたのですが、震災直後、という状況下では、非常な説得力があるように感じました。凡その趣旨は、以下のような調子です。今日は時間が無いので、だいぶ乱暴にまとめます。
道徳は心の問題のように思われがちだが、心が正しい人も、その心の正しさを行為に表さなければ、まだ道徳的とは言えない。『道徳的かもしれない人』『いざ他人と関われば道徳的に振る舞う予定の人』『道徳的である可能性のある人』に過ぎない。行為とは人間が自分以外の人・ものと関わる事で、自分以外の事物と関わるなら、そこに上手い・下手の別が生じる。つまり道徳には上手い下手があるし、上手く環境に働きかけられる事、技術的に優れている事は道徳的な事とつながっている……」すみません。本文が一番言いたかったことが必ずしも反映されていないかもしれません。(読み返しもしないでこの記事を書いているので……)恥ずかしいので原典は明示しません。
技術的な巧拙が道徳と呼ばれる……つまり、地震に強い家を建てられる建築会社は道徳的な建築会社で、地震に弱い家を建ててしまう建築会社は非道徳的な建築会社だ、という事になります。(本文中に似たような例が出てくる)この言い方、変な感じがしたでしょうね。一ヶ月ちょっと前なら。
今は、地震に強い家を建てられる建築会社は人の命を救うので、そんなに馬鹿げてもいないかなと思ってしまいます。
実際、現代社会は物質的な困難(たとえば狩りに失敗したからご飯が無いとか)に直面する事が少ないので、人の善悪は物質的問題から離れて論じられるという感覚が広まっています。狩りがちょっと下手でも、仕事がちょっと出来なくても、良い人というのは存在する。それが我々の常識になっているように思います。しかし、狩りに失敗すると子供が飢え死にするような時代には、狩りの能力は人間にとって欠くべからざる最低限の要求事項だったのではないでしょうか。
もっとも、その人自身が狩りが出来なくても、仲間が取って来た獲物を分けてくれる事もあったでしょうけれど。
有名なネアンデルタール洞窟の出土人骨は、確か足かなにかが悪くて自力では狩りに出られなかったと思われる人物が、落盤で死亡した後に仲間に花を手向けられた跡があったとか。
しかし、他方、「飯のタネになる」ことが「善」であるという感覚が昔はごく普通であった事を伝える要素も多くあります。
漢字の「美」という字は、もともと「羊」が「大」きい、つまり食べ手がある、という意味だったのだと読んだ事があります。腹一杯に食べられる事は、美しいのです。笑っちゃいますけど、これが野生の感覚なのではないでしょうか。
実務に長けて問題を解決する力があること。それもまた、大切なことです。
2011年04月16日
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