2019年04月20日

勉強法を文字で語る限界

ずっとブログを放置していましたが、振り返ってみると書きかけで放置しているテーマがいくつもありますね……目につくところでは、菅原道真の父祖や子孫の話。この記事は菅原文時(菅三位)という人物に興味を持ったのが切っ掛けで書き始めたのでした。
菅原家という一貴族の興亡を紐解くと、平安時代の日本が中国文化の影響を受容し、しかしやがてそこから離れていく過程を眺めることができる。これは非常に興味深いテーマでしたが、うーん、私の中で解決してしまった感があり、続きを書くモチベーションが今は乏しいのを感じています。もしかしたら、また書くかもしれません。

それから勉強法。最終的には塾を必要としない勉強法をまとめてみたいと考えていたのですが、よく言われることではありますが、「勉強法」をいくら読んでも聞いても、それで実際に正しい関心を胸に勉強量を稼がなければ、実際に知力は育たない。そして、何を胸に抱くかということ、これが文字では伝えにくい。つまり文章で勉強について語ること自体の虚しさを感じるようになりました。

よく志の無い子供たちは「普通がいい」「普通に生きていければいい」などと言いますが、その「普通」が、子供達がこれまで生きて、漠然とイメージしてきたような「普通」でなくなっている。日本でも他の先進国でも「中流」が崩壊し、その変化は、私の判断ではそうすぐには回復しない。そう考えると、もはや「普通で良い」という考え自体が危険であると私は感じています。
だからと言って、まだ信念というものを持ったことのない子供に「勉強法:まず志を高く持とう」と言っても響かない。荷の重いことですが、それは姿勢で示さなければならない。

ここ数年、小さな塾を守って、少ない生徒を教えて、それで半分満足してしまっていたようなところがありますが、一周回って、それではやはり不足であると考えを改めました。
世界を、破滅的な見通しから救うために、できることを模索しなければ。
posted by FORWARD-ac at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | つぶやき
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