2014年05月30日

酸化還元滴定・覚え書き

練馬から教育で世界を変える!
石神井公園の個別指導塾FORWARD塾長、松尾直樹です。

最近、生徒たちの指導で化学の酸化還元滴定を扱う機会があり、あちこち調べて知識の補強をしました。知らなくても丸暗記で問題は解けますが、やはり背景を理解している方がいい。
今日の記事は、化学を勉強していない方には、辛いと思います。スミマセン(^^;

Q:酸化還元滴定でよく出てくる、硫酸酸性とは何か
過マンガン酸イオン等を使った酸化還元反応で、事前に水溶液に硫酸を加えて水溶液を酸性にする。この硫酸が含まれたビーカー内の環境を硫酸酸性と言う

Q:なぜ酸性にしなきゃいけないの?
例えば過マンガン酸イオンは中性や塩基性の条件では、期待されているのと別な反応が起きる(中学受験で酸素の発生方法として紹介される「過酸化水素水+二酸化マンガン」の、二酸化マンガンが出来てしまう)可能性が高くなるので、望ましくない。そこで酸性にして、よけいな反応が起きにくいように制御している。過マンガン酸イオンは酸化剤として働く際に、酸素原子を渡す相手として水素イオン(オキソニウムイオンとかプロトンと言うことも)を要するが、酸性にすると水溶液中に水素イオンが豊富にある状態になるため、都合が良い。

Q:なぜ硫酸を使うの?
結論を言えば硫酸イオンは意外と酸化還元に関して安定だから。たとえば他の典型的な強酸のイオンである硝酸イオンや塩化物イオンと比べると、硝酸イオンは窒素が酸素を手放して酸化数を減らしがちで、酸化剤として働いてしまう。逆に塩化物イオンは電子を相手に渡して酸化数を上げがちで、還元剤として仕事をしてしまう。酸性条件を作るために投入した酸が酸化還元反応に加わってしまうと、反応が複雑になって面倒だから、使わない。硫酸イオンは、我関せずの態度を取ってくれるから好ましい。
posted by FORWARD-ac at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 化学

2014年05月13日

間が空きました

練馬から教育で世界を変える!
西武池袋線沿線・石神井公園の個別指導塾FORWARD塾長、松尾直樹です。

なんと前回の記事投稿から9ヵ月が経過しています……いくら生徒の指導優先といったって、放置し過ぎですね。

9ヶ月前に書いていたのが菅原道真についての記事ですが、このテーマは未だに私の興味を引き続けています。このテーマは、ともすれば退屈な奈良時代〜平安時代の日本史に、実は現代につながる大きなうねり、時代の転換があったという事と密接につながっていると思います。
そんなわけで、9ヶ月のブランクを越えて、菅原家の血統について、記事再開であります。
posted by FORWARD-ac at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ごあいさつ・漫談

学問の神様・菅原道真の血統(4)道真 その1〜成功した学者として〜

菅原道真の系譜について調べて記事を書いていましたが、いよいよ、菅原道真本人についてです。

菅原 道真(みちざね)

先代・是善の三男で、従二位・右大臣と菅原家の中でもダントツの出世を果たした人です。平安時代の著名な学者であり、学問の神様として各地の天満宮に祀られています。実際の事績としては、「白紙に戻す遣唐使」で894年に遣唐使の廃止を建議し、実際に廃止が決定されたのが有名ですね。

そして大宰府への左遷。時の左大臣・藤原時平に(おそらく無実の罪で)讒訴され、今の北九州・太宰府の長官の職に左遷され、同地で生涯を終えました。左遷される際の「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌も有名ですね。その後、太宰府で恨みをのんで死んだとされ、その祟りを鎮めようと各地に神として祀られる事になりますが、覚悟の座った人は、厳しい運命もやがて受け入れるもの。あまり恨みに囚われていたと見てしまうと、道真公を矮小化する事につながるような……太宰府では「断腸」の想いを詩に書いているようですが、同じ詩に「恩賜の御衣 今此に在り 捧げ持つこと毎日 余香を拝す」ともあり、恨みと言うよりは、帝の恩寵を懐かしむ方向性が強いように思うのですが。(そもそも様式の整った漢詩を作る余裕があるならかなり冷静だよね、と思ったりします)
実際のところは、鬼神に変じる程に恨みに囚われていたとは、思われません。

ちなみに作品で言えば、小倉百人一首には「この度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」が収録されています。「旅に出るに当たって、旅の安全を祈願して道祖神に手向けるべき幣も用意できず、手向山の金糸銀糸織りのような紅葉を捧げます、神の御心のままに、お納め下さい」といったところでしょうか。百人一首は素人目にはなんでその歌を選んだんだか、良く分からない歌も多かったりするわけですが、この歌は重責を負い多忙の人であったはずの道真らしい(同時に、忙しさを理由に儀式をサボったりするところも見える)気がして、歌としてどうこうと言うより道真の人柄に触れられるように思い、私はわりと好きです。

上記のあたりが有名な話で、あとは高校生で真面目に日本史を勉強していると「阿衡の紛議」という事件を知っているかもしれません。時の権力者・藤原基経が天皇と対立し天皇を圧倒した事件ですが、道真の介入で基経がやや手を引く事で事件は収束し、道真が天皇の信頼を得て一気に権力の中枢に食い込むきっかけとなった事件です。
基経は天皇から関白(当時はまだこの呼び名は使われていなかったようですが)に任じられましたが、その際の詔勅に「阿衡」の役割を果たせ、とあったのを、ある学者が「阿衡とは古代中国の歴史上にある職名だが、名誉職で実権は無かった」と基経に告げ口し、基経が怒って政務を放棄したため政治は麻痺。天皇が自らの非を認めても尚、基経は機嫌を直さず、詔勅に「阿衡」と書いた詔勅起草者を流罪にしろと迫りました。まぁ、どう見てもまったくの言いがかりにしか見えない話ですね。学者間の出世競走で、詔勅起草者を陥れようとする動きがあったのだとか、いろいろ言われております。まぁ、基経本人にモチベーションが無ければ、ここまでの大騒ぎは起こさないでしょうから、やはり基経が自分の権力を盤石にするために起こした(あるいは利用して大事にした)騒ぎ、という事なのだと私は思います。
この事件の際に、讃岐守だった道真は「騒ぎをこれ以上大きくすると、貴方たち藤原氏のためにも良くないのでは」といった書簡を基経に送り、基経は説得され、詔勅起草者の流罪は求めないことにした、という話だそうです。たかが一国守の立場で中央の権力争いに介入し、なんと決着させています。以降、天皇の信頼が厚くなり出世を重ね、右大臣にまで出世します。
ちなみに、職名で言うと太政大臣がトップで、次が左大臣、No.3が右大臣です。ただし道真公が右大臣になった際は太政大臣は空席ですから、右大臣は繰り上がってNo.2。しかもNo.1の左大臣は若年の藤原時平だったため、上皇から「時平に顧問をつけろ」とアドバイスがあっての右大臣就任でした。左大臣と同格か、上席の右大臣、という感じがあります。
さらに付言すると、藤原氏や天皇家出身でなく大臣にまでなる事は稀であり、学者から立身して大臣となったのは、ウィキペディアの記述を借りれば「近世以前では、吉備真備と菅原道真のみ」とのこと。

実はこの記事には書かなかった様々な背景もあるのですが、とにかく彼が天皇に重用されたことをはじめとして、時の最高権力者であった藤原基経など、実に多くの権力者たちから一目置かれ、またその発言によって政治や政局が大きく動く、一級のVIPであったことは間違いありません。このような影響力の背景には、優れた学識と文才、そして時の権力者にも堂々と意見する胆力によって天皇の信頼を得たこともありますが、同時に彼の元には多くの学生が集まっており、ひとつの学閥を形成して朝廷を支える多くの優秀な官僚を輩出していた事も見逃せません。彼は私塾を開いており、そこから朝廷に多くのスタッフが送り込まれていたようです。

と、以上、右大臣にまで立身出世した「学者中のスーパースター」としての道真の肖像を、ザッとご紹介しました。
posted by FORWARD-ac at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑学・教養